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	<title>八坂圭&#124;Kei Yasaka</title>
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		<title>めくってください</title>
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		<pubDate>Sat, 03 Mar 2012 23:47:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>yasaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[パプアニューギニア記]]></category>

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		<description><![CDATA[愛する皆さんこんにちは。 今日もしばし旅の時間にお付き合い下さい。 「今日は日本から、お客さんが来てくれています。お名前はケイ・ヤサカさん。皆さん最初は英語で。それからインドネシア語で。そして日本語であいさつしましょう。」 「おはようございます。ヤサカさん」 「彼は、グラフィックアーティストです。ご覧下さい。こんなカレンダーや、こんな絵を描かれていますよ。私がかつて夫の仕事で日本に４年間すんでいたとき、八坂さんは、鶴ケ島市で私たちの国の民族芸術のコレクションを案内する仕事をされていました。その時お会いして以来の友人です。」 「八坂さんは、今回ひさしぶりに私たちの国を訪れました。そして、今日は彼の初めての絵本を紹介してくれます。それではケイさん、どうぞ自己紹介を。」 ここは、セント・ジョセフインターナショナル高校。私を紹介してくれているのは、ヨギ・バランパタスさんです。実は昨年末、パプアニューギニア行きを計画した頃、いくつかのシンクロニシティーを体験していました。その一つが、ヨギさんとの再会でした。 私はかつて、埼玉県鶴ケ島市が所蔵していた1725点のオセアニア造形物を活用した社会教育を担って勤務していたことがあります。 当時、愛知万博という自然環境をテーマとしたイベントがあり、オセアニアの民族造形を展示するブースもありました。そのいくつかを鶴ヶ島のコレクションから貸し出すことになり、その当時、PNGの公使として日本に来ていたバランパタス氏にコレクションを案内することがありました。 皆さんご存知のように、私はその後関東を離れ、福岡で制作をしていますが、当時の知人が、福岡に住むPNGゆかりの人に私の連絡先を伝えていたらしいのです。その方のお家に年末ヨギさんが遊びに来られていて、偶然、私の話題になったそうです。そして、一度電話してみましょうということになったそうで、私の携帯が鳴りました。 その時、私はちょうど、エアニューギニーの2月の搭乗便の先行予約割引について調べていたところでした。 「ヨギさん？お久しぶりです。どちらにいらっしゃるのですか？ 　え？福岡？福岡のどこですか？」 「そうなんですか？そこは私の家から、2キロと離れていないところですよ？」 そうして、私はヨギさんと再会し、そこで昨年出版した「めくってください」をピジン語で読ませていただきました。 彼女は、話しを聞いて涙を浮かべられました。 そして、この話しを私の学校でして下さいと仰った。 今は、私たちをつないだ鶴ヶ島のコレクションは解体され、いくつかの研究機関にばらばらに保管されています。 PNGでは、外国との接触が比較的すくなかった1960年代まで、非常に高い精神性と完成度をもった造形物が、宗教儀礼の必然性から生み出されていました。 それらは、海外のコレクターの垂涎の的となり、一時期さまざまなオークション会場で高値で取引されていました。 そのような作品群は、メトロポリタン美術館のマイケルロックフェラーウィングなどで、誇り高く展示されています。 そのようなコレクションと同程度の品質と規模で、鶴ヶ島のコレクションも存在していました。 さまざまな経緯があり、私は20代の半ばそのコレクションに出会い、留学への道を選びました。もう、現在のPNGにそのような造形物をつくる文化的背景も条件も無くなりつつあります。わたしが様々な村を訪れ、出会い、話しを聞いた長老達は、その最後の世代で、伝統として話は次の世代に受け継がれてはいても、生きた生活文化ではなくなりつつありました。 そのような作品群には、自然そのものなかに潜む精霊との対話から生まれた、とても創造的で根源的なバランスや美しさが宿っていました。私にとっては、新しい時代の人類に相応しいアートを生み出していくために、必要不可欠な理想が、その作品の中に息づいていると直感されたのです。 コレクションは、関東のいくつかの大きな美術館で何度かの展示を経験しています。ヨギさんは、高校生達に日本の高度な伝統文化やヨーロッパの絵画と並んで、PNGの造形物が展示されている様子をパンフレット等をつかって説明し、自国の文化を違った視点から見直すことを提案します。 「日本の街はとても綺麗です。みなとても洗練されていて発展した美しい国です。ケイさんはそこでアートを学び、お仕事もされましたが、彼がもとめていたのは私たちの国の森や山から生まれた精霊像だそうです。」 残念ながら、そのような文化財は、PNGからはほとんど失われてしまっています。ですから海外のまとまったコレクションは、PNGからの預かりものであり、次代への世界遺産でもあります。 「おはようございます。皆さん、これからはピジン語で話しますね。私は、かつてゴロカ（ニューギニア高地にある都市。かつて私が通った大学がある場所）に住んでいました。ですので、私にとってはピジン語で話すのは、とても楽なことなのです。」 「今回、私はウエストニューブリテンのキラゲ村というところに行ってきました。キンベからPMVとボートを乗り継いでも、丸一日はかかる場所です。その村の生活は、街とは随分違います。食べ物はお金で買うのではなく、大地から分けてもらうもので、水は川が届けてくれます。ポートモレスビー（PNGの首都）のような渋滞も粉塵もありません。」 ポートモレスビーは、いま急激な近代化の時間を通り抜けている最中で、さまざまな混乱と社会問題が露呈しています。スラム化や役人の不正、海外資本の寡占など、正に荒波の中で翻弄されている船のようです。 様々な国のビジネスマンが首都に住み、その子女はインターナショナルスクールに通います。ここセント・ジョセフはPNG人の割合が高いのですが、中には村の生活を知らなかったりします。 村と街の生活のコントラストは、とても激しいものです。 私たちが一週間の村の生活を終えて、キラゲの村を出るのは、火曜の朝になりました。今度は私たちの他にも乗客がいて、ガソリン代は頭割りになりました。 のんびりとした生活の中、何度か叔父や叔母達と砂の上に数字を書いて、旅費の算段をしました。みんなそれぞれに「俺に任せとけ」というので、意見がまとまりません。私は数日をかけて話しをまとめ、結局３人の叔父と兄弟が私とともに空港のある街まで一緒にいく事、帰りの分のガソリン代は私は見ないことで話しがつきました。 浜辺から船が発つとき、いつものように沢山の家族がならんで見送ります。年老いたおばあちゃん達は、最後かもしれないといって、泣いてしまいます。そんなことないよといっても、詮のないことです。 今日は私が最も信頼する叔父のパトリックがスキッパーです。アイサポもいっしょにいて、先ずは「ガル」と呼ばれるキンベ（ウエストニューブリテンの中核都市）までの道路に通じた集落へ、約8時間の海路です。 今回は天候に恵まれ、空は青く、タラウェ山も周りの山並みもとても美しく見えます。 軽快に走るボートで、私たちはパラダイスから遠ざかって行きます。 ガルからはトラックの荷台に揺られて、2時間くらい。 キンベに着くと、イギーの従兄弟にあたる叔父の家で休みました。 あたたかく向かえてくれる家族の時間は、村の延長です。しかし、そこでの二日間は、テレビの音、車の音、食事に入るコンソメの味、缶詰の肉、小さな盗み、酔っぱらいの叫び声、それらが背景の生活。私にとっては懐かしくもあるけど、ニューギニアの街の生活の一端が淳くんに新しい印象を与えます。 イギーの従兄弟レオ叔父さんは、マレーシア資本のとても大きなヤシ油プランテーションの会社に雇われて、会社が準備した従業員居住区のフラットにたくさんの家族と暮らしています。 レオ叔父さんは私が来たことを本当に喜んでくれました。ケイとこうして話していると、村に帰ったみたいだと言ってくれ、木曜の朝ホスキンスの空港に向かうときは、こらえきれず男泣きしていました。 「圭さん、村のみんなは、村の生活と街の生活とどっちが好きなんだろう。」 今、多くの若者が、特に仕事もないのに街へ出ようとしています。 キラゲの村にも、「街に行きたいなあ。ビデオが欲しいなあ。車に乗りたいなあ。ケイの国はビルばっかりなんでしょ？すごいね。」と、素朴に都会を夢見る子供達はいます。 と、同時に、キラゲには退役軍人や、街で働いていた男達も戻って来ています。彼らはあえて、村での生活を選んだ人々です。 パトリックもそんな一人です。キンベに来て二日。彼はレオ叔父さんの家のベランダで談笑し、多くを語らず、村にいたときと同じように堂々としています。私は彼に淳くんの問いを投げかけてみました。 「ケイ、その質問は聞くまでもない。村の生活こそ本物だ。」 どうしたら、地球一つが、キラゲのように笑って、ゆたかでつつましく、美しく輝いていられるか。 答えはありません。ただ、人々が楽園の型をしって、我欲を去り、執着に気づいてそれを手放すなら、愛において日々を生きるなら、人類が成長するのなら、そんな未来があるのかもしれません。 「さあ、それではみなさん。私の絵本を読みますね。 　めくってください。I am a [...]]]></description>
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		<title>すっからかん</title>
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		<pubDate>Fri, 02 Mar 2012 08:46:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>yasaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[パプアニューギニア記]]></category>

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		<description><![CDATA[愛する皆さんこんにちは。 今、こうして福岡の自宅で旅の当時のメモを見てみると、村にいた間つかったお金は、12キナ。一週間で約480円でした。夜、電気をつけて遅くまで話したいってみんなが言うから買って来た自家発電機用の軽油と、隣村の住民達がこの時期キラゲではとれないビートルナッツ（ビンロウジュの実：噛むと頭がすこしぽーっとする）をボートで運んで来た時に、じいちゃんとばあちゃんに買ってあげたくらいです。 しかし、私もジュンくんも、体験した事のないほどの豊かな時間を過ごしました。 なにもしないでいたければ、なにもせず。歩きたければ歩いて、食べたい時に食べたいだけ食べ、眠たくなれば寝る。その間中、村のみんなはちょうど良い距離で見守ってくれて、だれにも無理に気をつかわないし、だれも私たちにも無理に気を使わない。 ただ、お互いの思いやりと、緩やかな時間だけがそこにあります。 淳くんは、本気で阿蘇で自農自作で生きようと思っています。すでに地元の人々に受け入れられ、畑を安く貸してもらっています。きちんと手入れしたら現金収入にもなるかもしれない栗園の管理も任されている。 彼は、薄氷のような現代の社会システムがパリンと割れたとしても生き残られる道を模索しているのかもしれない。しかし、そのような未来を見据える事が困難な日本である事も知っている。 ましてや、畑など持たない私は、そんな未来を見据えたら少なからず憂鬱になる。そもそも、人は大地の恵みだけで生きて行けるのでしょうか。 「そんなこと言ったって、お金はいるでしょう。」この言葉はまるで鉄壁のように、誰一人超えてはならない掟のように現代人に覆い被さってはないでしょうか。 その壁を越えられない、のは分かります。私もそうです。しかし、乗り越えられる人は乗り越える自由があっていいのです。 淳くんはキラゲの農業に興味をもち、キラゲ内に三つある主な集落、それぞれが担当してる畑をすべて見せてもらうといっていました。 私は勝手に若者達と行って来てほしいと思っていました。 30前半の頃、腰を痛めてから、あまり長い距離を歩くのは控えていたのです。のんびり浜のそばで、子供達に見守られながら絵を描いて一週間すごせたら、それでいい。そもそも、イギーの墓を村のみんながとても奇麗に整えてくれているのを見たので、もう、用は済んだ様なものだったのです。 しかし、まだ行ったことの無い畑もあるので、一応ついて行きました。 一日目、二日目、三日目。 私は驚いていました。どこも、痛くない。 さすがに、渓流を上って山の中腹の滝壺まで登った時は、往復６時間ほどかかっていて、少し膝が痛みましたが、それも翌日には消えている。 人間の体はストレスがないと、こんなにも蘇生するのだと再確認しました。 朝、目が覚めて、妹のいれてくれたティーパックのお茶を飲みます。簡単に着替え、縁側で歯磨きをして、ぼんやりしてると、 「ケイ、今日はあっちのガーデンに行こう。」 「ああ、いいよ。近いんだよね。」 「近い近い、すぐそこだから。」 「すぐそこね、じゃ、まあちょろっと行ってみよっかね。」 「うん、いこういこう。」 そうやって、何の気なしに歩き始めると、あっという間に二、三時間歩かされています。 「アイサポ、これは近いって言わないんだよ。ケイの感覚では、近いって言わないんだ。」 「あー、まあね、でも楽しかったろ？」 楽しかった。楽しかったのだ。私たちは本当に、一週間、すっからかんで楽しかった。 彼らの畑は、おおまかにどの家族の場所か、どのコミュニティーの場所か決まっています。決まっていますが、厳密さはなく、常にとれたものの分け合いがあります。その分け合いの記録は紙ではなく、心に刻まれます。 義理や義務感で返される分け合いはないように見受けられます。どうしたって、芋やバナナは余ってしまうのです。食べなければ、腐るだけです。怠け者にも十分に分け与えられます。その一方で、すこし休めよっていうくらい毎日畑にいく男もいます。 いろんな作物が一つの畑に混在して、肥料もなければ、農薬も無い。 陽は降り注ぎ、土地は十分で、一年に何度も収穫がある。 ヤシの木は柱になり、屋根になり、床になって住居を私たちに与えてくれる。 毎週日曜日は教会に村の皆が集まり、同じ時間に手を合わせます。 月曜日にはコミュニティーワークの日で、若者は力仕事を、女達は掃除を。大人達は砂浜に座って、近頃のことを訥々と何時間もタバコをすいながら話しています。時間が熟すまで、同じ砂に座って。 村にはキリスト教以前から、自然の中の精霊達とともにあるための歌や祭りがあります。この村にはいったキリスト教会は、そういったものを排除しませんでした。今でも、伝統の半裸の装いで、教会の行事に参加する姿が見られます。 「ケイ達がきたんだから、今度の日曜は子供達に衣装を着けさせ踊りをみせてやろうじゃないか。」 「いいの？準備大変じゃない？」 「いいんだよ。やろうやろう！」 そういって、すぐに井戸端会議があちこちで始まり、準備が私たちのしらないところで始まりました。 伝統文化と、新しい教会と、大地からの食料と、太陽熱と、友愛と尊厳と。 全てが調和して、そして、どこか力が抜けている。 私は、この生活が見たかったんだ。 正真正銘の、地球らしい人間の調和の世界を見たかったんだ。 なぜか、今私たちがいる世界、そして、この村から一歩出てパプアニューギニアの他の街にいってしまえば見られない、豊かな世界。 ここでは、そんな生活をするのに、「そうは言っても、お金は」いらないのです。 地上天国のひな型。 この型を、そのまま世界に適応させるのは無理ですが、角度を変え、次元を変えた時に、見えてくる、要点と方向性を得ることが出来るように思います。 さしあたり、今の日本人に一番欠けつつあるのは、自己存在への絶対的信頼かもしれません。自分が生きているのは、宇宙がそれを赦してくれたからだという真実に基づいた。 そんな、ある意味、底が抜けてしまう様な大信頼があるとき、すべてを天の運行に任せ、人を赦し、だれをも尊敬し、ほがらかな冗漫性をもって、生きることを喜べるものです。 「日本も、昔はこうだったのかなあ・・。」 淳くんは言いました。 私たちの世代は、日本の農村が朗らかな冗漫性にゆるされながら、調和して安全であった日々をよく知りませんが、そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。 結局人は、自分が与えられた座標からしか世界を観ることが出来ず、言い換えると、人の数だけ世界があるとも言えます。 キラゲの生活をシェアすることで、私たちの座標軸はすこしだけ柔軟性を取り戻すのかもしれない。 [...]]]></description>
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		<title>多様性とユニティー</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 13:37:48 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[愛する皆さんこんにちは。 言葉ってとても不思議なものです。それは生きています。 かつてこの星には、すごい数の言語があったと言われています。2012年現在、その数は減り続けていて、英語と中国語という二大巨頭の勢力は広がり続けています。 言語の統合は、正に闘争と占領の歴史です。 パプアニューギニアには約800の言語があると言われます。日本はよく単一言語などといわれますが、実際には13くらいの言語があると数える事も出来ます。 一地域内にある程度の人が、もっぱらその言語をつかって生活上のコミュニケーションしているなら、その言語はその地域に生きていると数えます。ですから、韓国語や手話も日本地域でカウントされる言語になります。さらに、奄美の言葉、沖縄本島の言葉、宮古島の言葉、八重山の言葉もそれぞれ違う言語として数えます。一方で、関西弁と東京弁を別の言語とは数えません。 （厳密な数字を追いたい方は、この記事を当てにされず、ご自身で文献をあたって確認して下さい。） パプアニューギニアの国土は島嶼部を含めても、日本の国土面積の1.2倍ほどです。その狭い地域に800の言葉が残っているというのは、何をあらわしているのか。 それは、異なる言語を持つ部族間の闘争が、占領・非占領の関係性を持つ事が少なかったという事の間接的な証拠かもしれません。実際、作物のすくない山岳部では、頻繁に部族間の争いが起きます。私が留学してるころですら、その名残はありました。 しかし、実際に喧嘩がはじまると、だれか一人でも死傷したりすると、大騒ぎになり、賠償を求める口争いに変わり、やがて豚やわずかな土地の境界の譲歩で話しがつきます。熱心に争いをつづけるほどの懸命さは、この気候には似合わないのかもしれません。 新しい言語が生まれるという事はあまりありません。目立ったところでいうと、「エスペランサ」というものがあります。ポーランド人の頭の良い人が、国際共通言語として人工的に作ろうとしたものです。 エスペランサ語の聖書もありますし、きっと一つの言語に数えられるでしょう。しかし、あまり普及してませんね。プログラミング言語や手話も新しくうまれる人工言語ではあります。 もう一つは、植民地時代に宗主国の言葉と現地の言葉が混ざり合って出来るクレオール言語というものがあります。南米に多い言語です。宗主国の元の言葉とは別の言語としてカウントされるものがあります。 また、そのクレオール言語とも呼べない段階の言語として、ピジンイングリッシュと呼ばれる、いわゆる「片言英語」がありました。もともと、アジア沿岸部で西洋諸国との通商につかわれていた言葉ですが、言語と数えられないほど未発達なものでした。 しかし、そのピジンイングリッシュがパプアニューギニアでは独特の発展を遂げ、一つの言語としてカウントするに値する使われ方をしているのです。自然発生した最新の言語が「Tok pisin」かもしれません。 世界のあちこちにピジンイングリッシュは残っているようですが、日常の会話をほとんどまかなえるパプアニューギニアのピジンは、一線を画しているように感じます。 800もの言葉がある国では、別の部族間の人々が話しをするとき、ピジンイングリッシュがとても役に立ったのでしょう。今では、国のほとんどの人がピジン語を話せます。そして、自分の部族の言葉も。 私は、留学中にこのピジンイングリッシュを覚えてしまって、とても楽に話す事が出来ます。この事が、パプアニューギニアの旅をとても快適にしてくれます。 さて、キラゲ村です。 ここでは英語があまり通じません。中にはピジン語すらも通じない村人も居ます。キラゲの部族の言葉だけが唯一の言語であるおばあさんもいます。 「ケイ、ヤシの実は、ナニュウだよ。火種は、ナリガ。おはよう、は、ウトゥエパプエ。こんにちは、は、レイレイパプエ。こんばんは、は、ウォンパプエ。」 「うん、覚えてるよ。そして、ありがとうは、サグリムパプエ。Yes、は、メ。だったよね。」 「よく、覚えているね。さすが村の男じゃ。」 「うん、歌も覚えているよ。オエモロエーモロアー、オエモローエーモロアー。オエモローエエモロアー。遠い昔のことだよって意味だったね。」 この村の言葉は「マレウ・キラゲ語」と呼ばれます。 オーストロネシア語族の言葉は、母音をはっきり発音します。ですので、彼らの言葉をカタカナ読みで返すだけで、十分に通じます。 淳くんは、日が経つにつれ、村の皆と仲良くなり、彼らが教えてくれる言葉を一つずつメモして、片言の会話を重ねて行きます。こうやって、彼の頭のなかにあたらしい言語のフィールドが出来て行きます。 「オイシイ　ゴハン　アリガトウ」 「おー、ジュンもこれでキラゲの村人だ！」 「アリガトウ　アリガトウ　シアワセデス」 みんな、淳君が言葉を覚えるたびに大騒ぎです。笑い声と歌声が響きます。わたしが早々に座談を立ち去り、眠りのなかに入った後も延々と夜のしじまの中で談笑を続ける淳くんがいました。 言葉って、不思議です。 それは、形が無いけれど生きていて、こんなにも人と人をつなぎ、楽しませてくれる。 浜辺でカルカの上に座って、時間も忘れ、たき火の香りに鼻を刺激されながら、今夜は私も一緒に「炭坑節」を歌ったり、村の歌をうたったり。そんな中、おじいちゃんが「もしもし亀よ亀さんよー」と、歌い出しました。かつてここも、日本の占領地だった事があります。そのとき、日本の兵隊から教えてもらった歌だと言います。 「あー、ケイ、ケイ、ケイ、ケイ。お前がこうして、日本と村を行き来して、友人を連れて来て、こうやって村で一緒に笑ってくれる。それは、とても良いことだ。」 「じいちゃんがそう言ってくれる事は、僕にはものすごいご褒美だよ。ありがとうねえ。」 「ケイはすぐに歌や言葉を覚えて、だれとでも仲良くなるよね！」 「姉さん、ありがとう。だってみんなが大好きだからねー。」 「うん、そうなんだ。ケイ、おまえのひいじいちゃんの話しをしてやろう。」 「ひいじいちゃん？イギーのおじいちゃんってこと？」 「そうじゃ。アササー（ご先祖というような意味のピジン語）はな、この村のビッグマン（リーダーのような意味）じゃった。アササーは強い男でな、みんな一目おいておったんじゃ。喧嘩してる男達をみつけると、アササーは二人を諭して握手をさせた。それでもきかなきゃ、投げ飛ばした。だれも彼には叶わなかった。アササーがそういうので、みんな参って、喧嘩をやめた。そうして、村は本当に平和になったんじゃ。」 じいちゃんは、村でとれたタバコの葉を新聞紙で巻いたブルースと呼ばれるタバコに火をつける。ナリガを手にして、吸ってはともすタバコの光が暗闇の中で温かい。 「昔な、まだワシが生まれる前。日本人がやってきた。ナカムラというその日本人はな、このキラゲの沖でダイナマイトをつかって、珍しい貝や珊瑚をとってな、それを世界でうってなかなか立派な財産をつくったんじゃ。」 「そのナカムラを、アササーはこの村に迎え入れ、ナカムラは居心地がよくなって、村で何人も子供をつくった。」 「アササーは人を分け隔てしなかった。ナカムラは結局、キラゲの人になってずっと住んでいたよ。」 「そうして、戦争が始まったんじゃ。アメリカ軍がやってきてこの村にも基地を作った。わしらの親達はおそれて山に逃げ、穴をほって暮らしたんじゃ。」 「それでもな、アササーは動かなかった。しかも、慣れない土地で難儀している兵隊達に、食べ物をあたえ、いっしょに酒を呑んで語り合った。」 「戦況はかわり、今度は日本軍じゃ。アササーはなにも変わらなかった。戦いの事はしらないが、ただ病気の兵がおれば助け、畑の食べ物をわけてやった。徐々に日本兵は彼を認めるようになって、尊敬の証に階級章を与えたんだ。」 「アササーはいつもそうだった。彼の強さに叶うものは無く、彼は日本だろうが、アメリカだろうが、この村に来たら仲良くしろと言っていたんだ。」 「だから、ケイよ。こうやっておまえが違う世界をつないで、平和な夜をわしらにくれたことは、大きな事なんじゃよ。」 「そうか。。アササーの魂を僕が引き継いでるって言ってくれているんだね。」 まあ、本当の私はそんな大それたものではない、一介の旅人です。 「そういうことよ！ケイ。」 おばあちゃんが、嬉しそうな顔をたき火の光に照らして口をはさみます。 [...]]]></description>
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		<title>風音につつまれ</title>
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		<pubDate>Wed, 29 Feb 2012 12:02:37 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[愛する皆さんこんにちは。 日差しのある日は気温が15℃ちかくまで上がるようになってきた福岡です。それでも、今朝は雪が積もりました。マイクロ氷河期が20年ほど続くという見解もあるようですが、四季のあるこの国は今、一進一退、春へと歩んでいます。 私たちは赤道から遠い所に国を営んでいて、太陽のエネルギーが絶えず降り注ぐ彼の地とは違う日々を生きています。 きっと、先祖達は太陽熱をいろんなものに変換し蓄えたのでしょう。曰く、米であり、麦であり、薪であって、貨幣であったのかもしれません。また、冬の日に暖をとりながら、訥々と話す昔話も、太陽熱の変換の延長にあるのかもしれません。 人はパンのみにて生くる者に非ず。上質なアートは人生の必需品です。精神は音楽や絵画、舞踊を通して十分に栄養を得ていなければ疲弊してしまいます。そして、その精神的エネルギーの栄養の源も、太陽なのではないでしょうか。 太陽光の乏しい地域に定住する私たちは複雑化した高度な芸術を希求して、精神の糧としている。しかし、日照量の違う南太平洋の国で、ただ浜辺で照り返す太陽を無為に受けるとき、それはありのまま宇宙の芸術体験なのかもしれません。 さあ、私たちは今旅の中にいます。 波を超えて村につき、一晩が過ぎ、二晩が過ぎた頃でしょうか。 「淳くん、数日前まで日本にいたの覚えているかい。」 「うん、なんか、でも、もう随分前のことと言うか・・」 「うん、遠い記憶のようだね。毎日、何度も何人もの僕の母や祖父や妹や叔母達が僕らに食事を運んで来てくれるけど、口には合ってるかい？」 「うん！すごく、おいしい。」 「よく、寝られているかい？」 「うん、すごく・・。」 高床式のこの住居は、イギーを生んだ母親の妹夫婦、私にとっては大叔母になるのでしょうか。そんな正確な関係性に特に意味はなく、ただ老夫婦は、「私たちはあんたのじいちゃんとばあちゃんよ。安心してここで休みなさい。」と、一部屋を空けてくれました。 村には「ハウスボーイ」と呼ばれる、独身の男達がだれでも好きなように泊まれる部屋がいくつかあります。兄弟達は、ケイがまた独身になったということをリマから聞いているので、前のようにハウスボーイに寝ればいいじゃんと言っていましたが、いつも私の身の回りの世話をしてくれる妹達の家も近いからといって、祖母達がこの部屋を準備してくれたのです。 竹を割いて編んだ壁はしなやかで、ほどよく風をさえぎり、そよかぜを受け入れます。 熟れたパパイヤは甘く、若いココナッツの実は微炭酸のジュースで溢れます。淳くんも私も、菜食者なのですが、ここでの食事に動物性の出汁や具が入る事はそんなに無いので、気兼ねなく自分たちの嗜好にあった食事が出来ます。彼らに特別に気を配ってもらわなくても、彼らが食べる自然の恵みを安心して分かち合えるのです。 主食は、タロイモ、ヤムイモ、タピオカ、サツマイモ、などの炭水化物。それをアイビカと呼ばれるモロヘイヤのようなぬめりのある葉野菜や「カンコン」と呼ばれる空芯菜のような野菜と一緒にココナッツの絞り汁で煮ます。以前はめったに塩味もなかったのですが（海水を汲んで塩をつくるのは手間なので、たまにしか作らないし、たまにしか使いませんでした。）今は、貨物船が精製塩を安定供給してくれるので、大抵の家に塩があり、適度に塩味がありました。 私も淳くんも、この食事が大好きで、飽きずに何食もいただきました。そして、時にはタピオカをつぶし、ココナッツと混ぜてバナナの葉で包んで蒸したパンケーキを叔母達が時間をかけて調理し運んでくれます。このパンケーキの自然な甘みが、贅沢な滋味です。 軒先で、浜の風に吹かれながら。 一食、一食、体と魂が本当に必要な何かをとりいれてる。 おいしい。満ち足りて、幸せである。 「ケイ、どんどん食べろよ。おまえも淳も痩せすぎだよ。食べ物は、全部、山の麓のガーデン（畑）のものだ。全部フリーだよ。フリーに歩いて、フリーに食べて、フリーにマロロしてくれ。それがキラゲの生活だろ？」 ああ、ありがとう。 うん、そうするよ。帰りのボートをどう手配するか。 銀行のある街まで、キャッシングする手だても無く、どうやってガソリンを立て替えてもらうか。まだ頭をつかう算段はのこってるけど、まあ、面倒ごとは慣れてる。天に任せて、村の自由ってやつを味わおう。 尾籠な話しですが、毎日のトイレが一仕事です。村には数カ所、共同のトイレがあります。深く広く掘った穴の上に材木を渡した場所に、四方をしっかり囲む小屋がたちます。入り口を隠す目隠しもあり、また、その小屋の周り25mほどが、生け垣で囲われ、プライバシーを守っている。立派なものです。 しかし、そこまで500mほどあります。 村の皆は、いちいちそこまでいかず、波打ち際で用を済ましてしまうそうですが、私たちは毎回そこまで往復歩く事になる。 その度に、子供達は「僕たちケイとジュンのガード！」といって、ついてきます。道沿いの脇の村の家からは、「息子よ！おはよう！」「孫！こんばんは！」「兄弟、こんにちは！」と毎回声を掛け合います。村中、家族だらけです。 手を振りながら、そばまで行くと、手前の家の妹達が、手水を用意してくれます。そして、帰りがけ縁側にすわってひとくさり話をする。 そういうパレードが、水浴びの時とあわせて一日に数回。 笑顔と、温かさと、日差しと、波音と、風音と。 彼らにとって見慣れた毎日を、私が花をみて、風の歌を褒めると、理屈抜きに同じ感覚をシェアする兄弟達。 「淳くんがこの村の生活を不便に思わず、ただ居る事を楽しんでくれて、僕はとても嬉しいよ。」 「うん、山でとれるものだけを分け合って食べて、みんな元気そうだし、なんか、すごく心地いい。なんか、調和してるっていうか・・。」 「淳くんもそう思う？ここは、パラダイスかな。 　ひょっとすると、あの高波の中、僕らは海に沈んで、天国に来たのかもしれないね。」 「あはははは。そうかも。」 「ケイ、洗い物ある？」 妹のジェネウィーが、扉の外から聞いてきます。 毎日、朝のお茶をいれたり、洗濯したり、親戚達の沢山の食事を、お皿に取り分けたり、家の周りの落ち葉やゴミを掃除したり。本当にあたまのあがらない働き者の女性達。彼女達の世話を受け入れる事が、彼女達の喜びである事を、10年前は学びました。 「ありがとう、スサ（シスター）。」 夕には、叔父達が尋ねて来て、カルカ（ジュートの葉を編んだマット）に座り、物語をします。 近すぎず、遠すぎず、執拗さは無く、私も彼らもマイペースで。 毎日、体と魂が健康であるために必要な食べ物と美しさは、太陽と地球から十分すぎるほどに与えられて。 ああ、帰って来たんだ。 私はそうやっと感じていました。 私は時折、浜辺やイギーの墓の前にすわり、祈りを捧げ、瞑想をします。 その事を、何一つ奇異な目で見ないでそっとしておいてくれる。 村での家族達との時間を、なんて言ったらいいでしょう。 控えめにいって、私たちは、愛し合っていた。 もし、なにかあって、この村に取り残されても、私が容易に肉体を損ねることは無いでしょう。そして、風に揺れる椰子を前景に、時折火山灰をあげるタラウェ山系の偉容を青空の下に見て、夜は天の川にとける無数の星たちと話し、宇宙と地球の織りなすアートを味わいつづける事でしょう。 でも、今回は一週間。 [...]]]></description>
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		<title>波をこえて</title>
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		<pubDate>Tue, 28 Feb 2012 08:10:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>yasaka</dc:creator>
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		<description><![CDATA[愛する皆さん、こんにちは。 さて、無事私は日本円を換金する事が出来たのでしょうか。 一番近い銀行まで、船で一晩はかかるこの地域で、カードも日本円も役に立ちません。 伐採地あとの浜辺には何本かタコノキがたっていて、水辺の植生を取り戻そうとしてます。淳くんはボートで待って、事情もよくわからないまま、船員と身振り手振りで話しています。一時間くらいそうやって待ったでしょうか。確かに沖の方の波が高くなっています。 しばらくして、本部から連絡があったと会計士が呼んでくれました。そして交渉の末、日本円をキナに換えて手持ちのキナとあわせ、1000キナ用意する事が出来ました。 腕に立派な入れ墨のある中国系マレーシア人の会計士は、まだ20才くらいの青年でした。私は簡単に彼をスケッチしてプレゼントしました。とたん、子供っぽい笑みをうかべ握手でわかれた。彼もまた、この宇宙船地球号の乗組員仲間です。 スキッパーと一緒に一枚ずつ数え、ところでこの波は大丈夫かと聞きます。彼は任せとけという表情で、 「はやいとこ行こう」 とだけ、ピジン語で言いました。 ディンギーに乗る時は、船の中央にあるすのこに荷物をのせ、それをビニールでくるんで海水から守ります。その荷物を背もたれにするようにして、すのこの前に私と淳くんは座りました。 今思えば、あのときはもう少し準備をするべきでした。救命胴衣も、錨もない船です。波の高い海峡は以前にも他の所で経験していて、油断すると危ない物です。一度は日が暮れる前に対岸につかず、簡素な錨をおろして、海の上で一夜を明かした事もある。 今回は、他にまともな乗客のいないハイヤー便です。燃料も運転手も私がまかなっている。もう少し、言える事があったはず。しかし、早くあの村へ行きたい。その思いが私を駆り立てていました。 最初、それほど波は高くなかったのです。しかし珊瑚礁を離れ、沖へ出ると様子は一変しました。波は5〜6mはあり、波頭から波頭へとボートは飛んで行きます。船外機のプロペラがちゃんと水面をつかんでいるのは、どのタイミングでしょうか。砂丘の次の丘をみるようにして、ただ、山から山へと海の道を切り開いて行きます。 ドン、ドン、ドン！ 山の頂上を船底が叩くたびに、強い衝撃と音が響きます。 海水は私たちを洗い、船底には少しずつ水が溜まります。 私はとっさに、瞑想状態になって、感覚をクリアにしました。 ただでさえ寡黙な淳くんは、さらに静かになりました。 海は広く、まるでボートは波間に揺れる木の葉のようです。 あのスキッパーは立派でした。 あの航路で、ためらいや躊躇があったなら、いま私はこうしてこの通信を書いていないかもしれません。 一時間半か、二時間か。 眼鏡はしぶきで役に立ちません。 常に船首を波頭に立てなければならない時化の中、よく対岸に向かえたなと思います。 この時期、雨期です。ようやく、タラウェ山が見えてきました。 雲がニューブリテン島を覆っています。 静かにここまでこられた全ての導きと、海の神、山の神、空の神に感謝の祈りをつぶやいていましたが、体はまるでボクシングを戦ったかのように、全身に痛みを感じていました。 リーフの中に滑り込めば、波はおだやかです。 懐かしいものがみえます。 私がかつて成人の儀礼を受けた精霊堂の影です。キラゲ村は、キラゲ、オンガエ、ポートネ、三つの集落から成っています。あの影は、間違いなくポートネの精霊堂です。 リマは「村も変わったわよ。発電機もあるし、今は月一だけど貨物船も来てる。ケイはがっかりするかもね」と言っていましたが、なにも変わっていない。火山を背に持つ村は、黒い砂浜のうえに穏やかに、ありのままに。 人影がみえて、ようやく言葉が出ます。「パプエンガタ！」 村の言葉で、「良か、良か。」というような意味です。 「オー、ケイ、ケイ、ケイ。来たなあ」 知っている顔が浜にいます。皆がボートを引き上げ、スキッパーに礼をいい、荷物を運び出してくれます。 疲れは一気に吹っ飛び、私は陸に上がり、皆の顔を見ます。 「十年だよ！始めてここに来た日から。」 そういって、兄弟達と抱き合いました。 「ああ、十年だ。」 しかし、まるで昨日帰った友を迎える様な淡々とした佇まいの家族達。 「ケイ、まずは体をあらって、やすむといいよ。この波の中、今日来るとは思わなかったよ。」 そう声をかけられながら、私たちは川のほとりへと歩きました。 村のみんなは、小型ボートの船員達をねぎらい、村の食事をわけていました。年下だけど叔父にあたるマーティンや、ガブリエルと同じ母親をもつアイサポと肩をならべ、ここまで1000キナもとられたよと話すと、それはぼったくりだろと笑ってくれます。 潮まみれになった服を脱ぎ、川の真水で体を洗います。 やっと、ここまで来た。 そして、すぐに私たちは高床式の家の一部屋に入り、そのまま眠りへとつきました。ピジンの言葉で、休む事を「マロロ」と言います。 「マロロ　パスタイム」（まずはやすめ。） 「マロロ　グッド」（よくやすめ。） 村のみんなの、その声を聞きながら、風の中でやっと私たちは目的地に着いた事を感じたのです。 今日は、このへんで。 これから、村の生活がはじまります。 よかったら、また旅の記録をシェアして下さい。 今日も宇宙にみちる愛とともに。 ワールドピース 圭 [...]]]></description>
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		<title>道のりは遠く</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Feb 2012 11:36:46 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[愛するみなさん、こんにちは。 パプアの旅の続きです。さて、昨日はどうにかレイからフェリーに乗れるようになったところまで、でした。このレイという港町は「Lae」と綴り、なぜか日本では「ラエ」と呼ばれます。しかし、現地の人は「レイ」と発音するので、わたしはレイと呼んでいます。 レイから船で行っても、帰りの船がレイから首都のポートもレスビーまでの飛行機に間に合いそうにありません。帰りは、ニューブリテン島を北上し、キンベの近く、ホスキンスからの国内線で首都に帰るほうが確実そうです。 さあ、そうなると、帰りの飛行機の便の予約変更が必要になります。 一息ついたのもつかの間、エアニューギニのオフィスに行って、どこかのお店で最低限の食料と水を買わなければなりません。 チェックインしたばかりの宿は、クレジットで支払ったために、払い戻しが出来ません。押し問答をしながら、受付の娘と会話が成立し、市内移動するために宿のドライバーを手配してくれる事になりました。 エアニューギニのオフィスでは、「急いでいる」などという言葉はなんの意味も持ちません。ただ、椅子に座って順番を待ち、手続きが始まっても、のんびり、彼女がタイプし終わるのを待つしかありません。 私がそうやってじりじりとしてるころ、淳くんは車の中でドライバーと待っています。彼はピジン語はもとより、英語も苦手です。それでも、ジェスチャーと物をつかってなんとか話していました。やはり、彼はこの旅の同伴者に相応しい。 無事、路線の変更ができて、あとは買い出しですが、もう時間が迫っています。マラリヤの薬や、村のおじさん達へのビール等、あきらめてビスケットや水だけを買います。 ルスラーンシッピングのオフィスへはいって、階段を上がりながら「アピヌーン」と挨拶すると、「ケイ？どうぞあがっておいで」と、アンの声がします。どっしりと重そうな体をゆらして、貫禄のあるおばちゃんが、チケットを用意していてくれました。私は旅の行程を話しながら、この海域の波の状態等を聞きました。 準備は万端ではありませんが、さあ、出発です。 船の名前は「モマセ・エクスプレス」船が行き来する「モロベ州・マダン州・セピック州」の頭文字をとった名前です。かつてと同じように、二階にずらりと並べられた二段ベットのなかから淳くんと私で二つの場所を占有します。事故の影響で乗客は定員の半数以下でした。 淳くんは、海に沈む夕日を何時間も見つめていました。 それは、かつて私が始めてこの船に乗った時の様子と同じ。 こうして、いよいよ日本から、街からはなれて行きます。 人のいない森が、海辺が、まだこんなに地球に残っている。 そこは、精霊達のすむところ。私がそっとしておきたいところです。 一晩波に揺られ、やはり船は揺れました。しかし船足が軽いことも安全運行につながったようでした。 早朝、シアシ島につくと、浜にはディンギー（屋根なし小型ボート）が並んでいますが、キラゲ村のある対岸の島、ウエストニューブリテンから来ているボートはなさそうです。港に入り、電波の通じた携帯に、リマから連絡が入りました。 「ケイ、村の連中とは連絡がとれたけど、迎えのボートは波でだせなかったようよ。今、そのモマセ・エクスプレスの船長が親戚筋だってわかったから、ケイの事をちゃんと見るように連絡だけはとれたわ。あとはそっちでうまい事やりなさい。」 オッケー、かあさん。それだけやってくれたら十分です。私は早速、船長を探し、向こうも分かったみたいで、ディンギーの事を尋ねます。船長は手短に腕のいいスキッパー（小型ボートの船長）を紹介して、あとは自分で交渉してくれとのこと。久しぶりの旅で、私は第二案を聞かずに彼に決めてしまいました。 ディンギーに荷物を詰め込み、彼はまずすぐそこの自分の村に乗客を降ろし、遠出するだけの燃料を準備するからといって、船を出します。 ひさしぶりのモーターボート。なあに、波はそんなにきつくないじゃないかと思いながら、浜辺の景色を楽しみます。 彼の村につき、交渉開始です。 「ここからキラゲまで、俺は海の道はわかってる。波は高いがそれは大丈夫だろう。まだ朝だ。そんなに荒れていない。ガソリンは往復24ガロン。最近では燃料が値上がりしちまって、それと船賃をあわせて1000キナ（キナはPNGの通貨。1キナは約40円）だ。」 「1000キナ？」 「そう、1000キナだ。」 「・・・。日本円で払ってもいい？」 「そんなこといったって・・こんな田舎じゃ交換出来ないし・・しかも俺は日本円が本物かどうかわからないぜ？」 正直言って、私はこのボートの金額を予測していませんでした。旅の記憶は蘇らず、またレイでの準備も万端ではなかったので、そこまで現金を準備していなかったのです。しかし、旅を終え今調べても、やはり以前より随分高くなっていたようです。 リッター換算すると、約リッター360円と言ったところでしょうか。これも後から分かった事ですが、街ではリッター150円程度で、島嶼部、遠隔地では倍というのが定着してしまったようです。 彼自身、ガソリンを他の村人から買うわけで、ぼろ儲けしてるわけではありません。しかし1000キナがない。ここで、道は閉ざされるのでしょうか。そもそも、今回の旅の予算計上が随分変わってくる計算です。 これで村に行ったとしても、このガソリン価格では、手持ちの日本円を換金出来たとしても、帰りの分がありません。 しばらくスキッパーと二人無い智慧をしぼっていると、一人の村人が、 「あのマレーシア人のやってる伐採会社のアカウンターならどうにかしてくれるかもしれないぜ！なんかお前より年下そうだし、似た肌の色をしてるよ！」 と、いいだしました。根拠の無い自信に満ちた笑顔が光ります。 こうなったら、他に道はありません。その伐採業者の所にディンギーを走らせることにしました。 浜辺につくと、裸になった大地がその褐色の肌を太陽にさらしています。 こわれたブルドーザーが横倒しになったまま錆び付いて、その奥には青々としたジャングルが広がり、マレーシア風のフラットがその境に立っている。長い列をつくっているのは、土地の権利を主張して対価をもらおうとする、地元住民です。 これが、パプアニューギニアの一つの顔です。他国の企業に資源を切り売りしながら、大局的な未来が描けないでいる国。 彼らは、そうやってやってくるアジアの伐採業者にも、アブラヤシのプランテーションにも、鉱物資源の採掘業者にも、かつては日本の軍隊の基地にも、親切で手助けさえして受け入れてきました。 一人の旅人がそんな事にどうのこうのと判断をはさむものではありません。今はただ、彼の助けが必要で、私は長い列をさえぎり、その若い会計士に声をかけました。 彼は英語もピジン語もよくわかったので、話しは早く、本部の許可を得たらほんのすこしの手数料をのせて、換金してくれると言いました。 その、返事が来るのならば。 よくみると、同じフェリーに乗っていてすこし話しをした警官がフラットの脇にたっています。 「ここの警備をいわれててな。まあ詳しくはなすことではないよ。それより見な、白波が立って来てる。どうやらお前達も今日はここに足止めだな。」 浜辺からしばらくはリーフ（珊瑚礁）が続きます。その外縁で波は砕けるのです。そして、その先に目をやると確かに白いものがみえる。 私はただ微笑んで、返事を待つ間、浜辺や空き地を散歩する事にしました。 今日はこのへんで。 また、よかったら旅の続きをおたのしみください。 今日も宇宙に満ちる愛とともに。 ワールドピース 圭 ☆ ☆ [...]]]></description>
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		<title>旅のはじまり</title>
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		<pubDate>Sun, 26 Feb 2012 09:36:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>yasaka</dc:creator>
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		<description><![CDATA[３月8日からの東京アートレッスンのリンクは文末にあります。 愛するみなさんこんにちは。 前回はいきなり2003年1月に閉じた旅のエピローグから始めてしまいました。そうして月日は流れ、2010年の晩秋、世話になったイギー・タラニアが亡くなったとの知らせが入りました。 私も私なりに福岡で生活をしていて、そのときすぐに飛んで行ける状態ではありませんでした。それでも、いつまでもそのままにしておくわけにもいかず、去年の夏頃から飛び立てるタイミングを探していました。 少しずつ見通しが立って来た頃、周囲にもその予定を話していると、一人の青年が同行したいと申し出てくれました。 彼は小倉淳くん。阿蘇で自作自農の生活を目指して、今は知人から任された栗園を管理しています。園の手入れがおそくまでかかる時は車中泊だったり、野宿だったり、ニューギニアの村の生活にもすぐ適応出来そうな資質をかんじました。 旅が近くなると、どこからとも無く、かつてのニューギニア関係の知人から連絡が入るようになりました。情報が拡散したのではなく、ただ、直感に導かれて、思いつきで連絡が通じて行った感覚。まるで、パプアニューギニアの精霊達がどこかでいたずらして、私たちをつないでいるようでした。 そうして、飛行機や船、宿泊先やタイミングなどが落ち着いて、出発の日を迎えました。 淳くんと二人、福岡から成田へ、成田で５時間ほど待って、エアーニューギニーというパプアニューギニアの航空会社の直行便で夜中の太平洋縦断です。 懐かしいピジン語。ニューギニア人のゆったりとした動作。飛行機の中から少しずつ昔の感覚に戻って行きます。 彼の国には20年以上、PNG（パプアニューギニアの略）の教育政策に関わる仕事をつづけ、PNG人の奥さんとお子さんとともに暮らしている伊藤明徳さんという友人がいます。 私は彼の助けもあって、彼の国への留学が叶いました。 そして、今回も早朝の空港へ私たちを迎えに来てくれました。 もちろんその前には、のんびりとした事務手続き、「急ぐ・あせる」という事をしらないPNG人の所作により、長い行列のなかで心穏やかにあるレッスンを体験させられます。そう、この感覚。徐々に私の中のねむっていたもう一つの自分が目を覚まそうとしています。 「圭さん、おかえりなさい。ポートもレスビーは昨日まで激しいサイクロンの影響で、木がなぎ倒され、大規模停電が起き、海では船が沈没し、屋根や壁が吹き飛んだところもあります。しかし今日はよく晴れていますね。」 日本に帰ってから知ったのですが、このフェリー沈没のニュースは世界に発信されていたそうです。そして、正に沈没した船の航路は私たちが村へと渡る途中どうしても通らないといけない海峡でした。 ともかく私は首都にすむ伊藤さんと、イギーの妻、リマ（つまり私の母親）に会い、淡々とした再会の時間を過ごしました。 「ケイ、船が出るかどうかはわからないよ。ゴロカにいるガブリエルには連絡をしたし、村のみんなにもケイが来るって言うのは伝えた。だけど、フィンシャーフェンからシアシ島のラブラブまで、フェリーが動かないんじゃ村からボートで迎えに行く事だって出来ない。ここから飛行機でレイまで行くつもりだろうけど、行き先をキンベに変更してそこから乗り合いバスとボートを乗り継ぐ方法もあるけど、この波じゃあね。」 「リマ母さん、わかってるよ。でも、とにかくレイに行くよ。そこでガブリエルと落ち合おう。まあ、帰りの飛行機まで2週間あるんだ。最悪でも、イギー父さんのお墓の前に一時間でもいれたらいいさ。それに今回の旅は始まる前からずっとイギー父さんがそらから見守ってくれている感じがする。きっとどうにかなるよ。」 「そうね、それはそのとおりだわ。まあ、私もほんとは全部大丈夫ってわかってるんだけどね。とにかく、無事に村についたら連絡ちょうだいよ。心配なんだから。」 今、パプアニューギニアでは携帯電話が普及しています。とはいえ、日本の携帯とは少しちがって、とても安価でシンプルな携帯の本機を買い、それにSIMカードを挿します。料金はすべてプリペイド式のカードなので、決まった住所や口座をみんなが持っているわけではないこの国でも、比較的容易に携帯を持つ事が出来ます。 私も旅の最中の連絡用にさっそく一台手に入れました。いつも電気があるわけでも、プリペイドカードがあるわけではない村からはなかなかかけられなくても、タイミングがよければこちらからかける事は出来るかもしれません。 そうして私たちはレイに向かいました。ガブリエルとも連絡がつき、久しぶりに兄弟との会話が弾みます。しかし、嫁さんと子供の都合で月曜日にレイまでくだる事が出来なそうだと言います。私もレイからいつ船出できるか分からないので、まあゆっくり来てくれと告げて電話を切りました。 レイについて、空港から街まで、先ずここでPMV（パブリックモータービークルの略：認可された乗り合いバスの事）を探して乗らなければなりません。ぼったくりと、ひったくりと、車の安全性を見極めて。堂々とした調子でピジン語を話し、ポッと出の観光客ではない事を分からせたら、大体うまくいきます。一年中、国中を旅していたころの感覚が蘇ってきます。 ガブリエルがこないとなると、親戚筋の家に泊まるのが難しくなります。今、PNGは今、天然ガスの資源開発で小さなバブル期を迎えつつあり、都市のホテル代金が急騰しています。ベットがあって、トイレとシャワーが部屋の中にあって、セキュリティーがしっかりしてる部屋に泊まろうと思うと、安くても一部屋４万くらいはザラなのです。 何泊レイで待つ事になるのか分からない私たちにそんな余裕はありません。バスの中でドライバーと話し、壊れかけててもいいので安そうな宿を見つけます。どうにか一泊一部屋4000円で、トイレとシャワーが共同の宿を見つけました。淳くんは床で寝るからここでいいよと言ってくれます。 やっと、荷物を降ろし、この先のプランを練る事が出来そうな場所を得られました。電話帳を借り、村に行くルートを探すためあちこちに電話します。飛行機で一番近い滑走路までいくことも検討しましたが、片道30万円くらいかかりそうです。小型ボートでフェリーが沈没した海峡をわたるのも、請け負ってくれる人がどこにもいなそうです。 だめを承知で、事故をおこした船会社に電話をします。受付嬢は型通りの英語で型通りの応対をし、話しになりません。英語からピジン語に切り替えて、ちょっと話すと責任者にかわってくれます。 「あんたピジン語上手ねえ」 「うん、かつてこの国の大学生だったからね。ところで、シアシ島に行く週一の定期船だけど、今週は出ないの？」 「出るわよ。今日の夕方。18:00。」 「なに？今日なの？そっか、今日か。そっか、それで、レイからキンベ、そしてラバウルに向かう例の航路は？」 「そのラインが、事故をおこしたのよ。再開はまだ協議中。今週は結論はでないでしょうね。」 「そっか、それで、シアシから帰りの便は？」 「来週の木曜発。それもまだ確定じゃないわ。もし今日の便に乗るんなら、港の事務所まで来て、アンはいるかって尋ねなさい。」 「わかった、僕はケイだ。これから向かうからね。」 今回の旅、ガブリエルは同行できなくなりそうです。 彼に電話をしても通じません。きっと電源もお金も切れたのでしょう。 ３人子供がいると昨日は言ってたっけ。 いつも、いろんな事を教えてくれた、旅のパートナー。 イギー父さんは、今度は一人でくるんだぞって言っているのかな。 今日は、このあたりで。 どうぞ、続きも楽しみにされて下さい。 今日も宇宙に満ちる愛とともに。 ワールドピース 圭 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ [...]]]></description>
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		<title>楽園から</title>
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		<pubDate>Sat, 25 Feb 2012 03:29:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>yasaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[パプアニューギニア記]]></category>

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		<description><![CDATA[愛する皆さんこんにちは。 パプアニューギニアの旅を終え、無事に帰ってきました。福岡に帰ると少しずつ春の足音を感じています。 すばらしい旅でした。 せっかくですので、これから数回に分けて旅の話しを書きたいと思っています。まだ、日本の感覚に戻りきれていないようにも感じますが、そんな揺れる感覚もそのままに、ストーリーを綴ります。よかったら少しお付き合い下さい。 私は27歳のときにパプアニューギニアという国に私費留学していました。大学院を出た頃、1725点のオセアニア美術の所蔵品をもつ埼玉県の鶴ケ島市を紹介された事がきっかけで、さまざまな偶然のような必然のような、諏訪の先祖までを巻き込んだ縁をいただき、彼の国へ渡るチャンスを頂きました。私は今年38になりますから、ちょうど10年ほどがたったわけです。 当時、ブログというものはありませんでしたが、大学近郊の町ではネットも通じていたので、せっかくの体験を日本の友人にも伝えようと、日々小さなページをhtml言語でつくって更新していました。 いまはそのページはないのですが、私のパソコンに保存しています。 その中から、今回の旅の目的地であるキラゲ村を最後に訪れたときのページを転載します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 二週間が過ぎ去ろうとしている。2003年がやってきても村は何も変わらない。新年の祭りというのは特に無いのだ。シアシ島からレイに戻る船は週に一便しかない。明日には小型ボートでシアシに向かわなくては。二度訪れると村のみんなの対応もちがう。明日帰るよといっても、みな「ああ、またくるんだろ」という顔をしている。また来る。たしかにまた来ようと思っているが、日本にかえってしまったら、この村がどんなに遠いことだろう。そう思うと、たくましい男達の笑顔がいとおしくおもえた。 おしいと言えば、アンドリュー叔父さんの声である。彼は村でも唄にくわしいので、僕は何度か彼に話しをきいたり、実際に唄をうたってもらったりしたが、村人みなでうたうときより、アンドリュー叔父さんのソロの方が、胸に染みることがあった。アンドリュー叔父さんもスピーカーの音楽が苦手で、「アレの、なにがいいんだ？」と首をかしげている。そんな彼に、僕は村を去る前の晩、クンドゥーを抱えて、夕闇の浜辺でうたをうたってもらった。 うねる。ひびく。笑顔しかでてこない。いまも目を閉じれば聞くことが出来る。それはどこか、似ているのだ。九州の、日本の、まだ祭りがのこっている場面 で聞こえてくるだろう唄と、かつて海辺で聞こえたであろう音と。僕が生まれた福岡のなかで、特に伝統の中で育ったわけでも、祭りに詳しいわけでもない。しかし、そう言ったものから遠ざけられた生活をしていた中でも、折に触れて僕の魂に残っていたものと、ここで僕が出会っているものは呼応しあって、感じたことのない懐かしい未来を僕に見せてくれるのだ。 まさに、そう言う感覚を得るためにこの国に来たのかもしれない。僕らの過去をみつめるまなざしの先に、思っても見なかった未来をみいだしたい。 自然な生活へ、素朴な生き方へ、戻ろうというのは言いやすい。しかし、そのような生活をおくると言うことが、日本にいたら仮定の問いでしかない。この国に来て、その問いは現実のものとなった。 自然な生活というならば、人間の「より良く生きたい」という願望も自然なものだ。素朴と言うが、他人の苦しみを知らずにいるだけの素朴さはなんの価値もない。 目の前の世界には守りたく思う美しいものがある。そして、前進していくために僕らが働きかけていくだけの余地もまだある。しかし、時間がすすめばすすむだけ、僕らはより賢くなる事をせまられる。昔のままに生きることは出来ない。今と同じ事をいつまでも続けることでは、何も守れない。 １０年後にキラゲに戻ったときに、僕に何が出来ているだろう。村を去るとき、ラジカセを抱えていた二十歳のマーティンに、「今度来たとき、おまえのシンシンがききたいな」と言った。彼はただ、笑っていた。 ガブリエルと僕は早朝ディンギーで村を離れた。遠く霞むまで皆で手をふり続けた。 ガブリエル、またいつか旅に出よう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そうして、10年。 私はやはり村に戻りました。 自分の子供を得て、東京で大手の会社の広告制作の現場で働かせていただいたり、10回以上の個展を開かせていただいたり、さまざまな出会いと別れを得て、祖国は地球の歴史に残る文明の事故に見舞われました。 彼らは、僕が村の浜辺に着いた時どんな顔をしたのでしょう。 今日はこのへんで。 是非、次号もおたのしみください。 今日も宇宙に満ちる愛とともに。 ワールドピース 圭 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ [...]]]></description>
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		<title>パプアニューギニアへ里帰り</title>
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		<pubDate>Thu, 02 Feb 2012 22:55:39 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[愛する皆さんこんにちは。福岡は雪が降っています。そして、私は夏しかない国、パプアニューギニアへと旅立ちます。 ちょうど10年前の今頃、私はパプアニューギニアでの学生生活の始めの月を体験していました。ハイビスカスが咲いて、バナナの木が揺れる空で、違和感無く私を受け入れてくれた学生達、ホストファミリー達、あちこちの村の友人達との交流にわくわくしていました。 あの頃、私は一日を一週間のように生き、多くの人と話し、多くの村を訪れ、たくさんの精霊を感じました。 ベースはいつも「ゴロカ」という町でした。空港があって、スーパーがあって、大学があって、郵便局がある。パプアニューギニアではちょっとした都市です。そこの大学に通いながら、縁あって「イギー・タラニア」という恩人に出会い私はいつしかその家族として待遇されていました。 二ヶ月が経つ頃、私はもう二年もその国にいるかのようにすっかり馴染んでいました。と、いうよりは、やっと魂の求める場所に帰って来れたという安堵感がありました。現地の人たちが好んでつかう「ピジン語」という他言語国家の汎用語もすぐに口をついて出てくるようになった。 そうして、タラニア家の兄弟とともにタラニア家の故郷、キラゲ村へと旅立ちました。乗り合いバスでゴロカから山を250キロ下り、港町へ。そこからフェリーでシアシという島へ行くなかでは、さっそく時計や財布をとられましたが、私はそれすら爽やかな気分だった。島から村へ、さらに小舟を駆って、５時間ほど。兄弟が私をしっかり守り、二日後にはたどり着きました。 話しは変わるのですが、私は幼い頃にルドルフ・シュタイナーという人間の考え方に出会い、そこに多くの共感をもって生きていました。私のアートの創造にとって、豊かな内面世界との関わりはとても重要なテーマであり、彼の著書の言葉に触発され、日々の瞑想を続けていました。その、瞑想の中で、どんな現象の中でも揺るぐ事の無い定点を建設する事をシュタイナーの瞑想は教えます。私は二十歳を過ぎた頃から、そのような定点を自分なりに感じていて、その定点観測所は、海辺の茅葺きの小屋として、向こう側の世界から私のイメージ世界へと表出して来ていました。私は煩雑な日常生活のあと、いつも、その定点観測所で短く空を見上げ、無限の宇宙の中で波音を聞いていました。 キラゲ村へたどり着いて、村の子供達の歓迎を受け、静かに長老達と挨拶をかわしていたら、すぐにしずかな夕がやってきます。 そこは、私の定点観測所そのものでした。 私の魂は、あらかじめ、魂の世界と、物質の世界の結節点をここに定めて地球に来ていた。 その村にはもちろん水道も電気もありません。川と海と森がライフラインです。ニューギニア滞在中、他にもたくさんの村を訪れましたが、私にとってはキレゲ村が特別な場所になりました。 私の魂はニューギニアにいる事で安心し、よろこび、その本来の創造性を生きるようでした。しかし、体はその地でマラリヤに罹り、また留学を終えて帰国すると様々な要因が私を日本の生活へと固定しました。私にとって、日本で制作し、生きる事も大きな宇宙の約束であるのを感じて。 五年振りに、その村に行ってきます。ホストファーザーが2010年に亡くなって、その弔いが主な目的です。もう一度、兄弟に連絡をとり、村まで道筋をつけてもらいます。 村がどのような場所になっているか、分かりません。 自然そのものと向き合う時間と生活がまだあるでしょうか。 精霊を感じ、精霊の感覚を儀礼や彫刻に表せる長老は、まだ生きているでしょうか。クンドゥと呼ばれる太鼓を叩き、精霊の歌声を聴かせる人はまだいるでしょうか。 それとも、グローバリズムの波にすべて洗われているのでしょうか。 私たちは個人でありながら、宇宙から見ると、人類という、もしくは地球という一つの生命です。そして、人間には、貴重な自由意志という宇宙船地球号の舵が与えられています。 私の定点観測所からは、なにが見えるのでしょうか。 その光景は、きっとこれからの私の制作に反映するのでしょう。 皆さんのが地球の代表者として舵をとるときに、私の絵はそっとその背景にあれたらいいと思います。 きっと、また、この通信で、旅の話しが出来る事を。 今日も最後まで読んで下さってありがとうございます。 宇宙に満ちる愛とともに。 ワールドピース 圭 八坂圭：活動のお知らせ&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8211; 福岡サンパレスで開催される「ワインバンズ」会場に12月に皆さんで制作した「みんなの光」（3m × 4m）の絵が掲示されます。ワインだからできる絆、お近くの方は是非ご参加下さい。 http://news.walkerplus.com/2012/0131/25/ 福岡アートレッスン 中央区の文化施設「あいれふ」でグループレッスンを始めます。 4/13（金）15（日）昼・夜開催します。定員は各回6名です。 どうぞご参加ご検討下さい。 お申し込み、問い合わせは art○yasakakei.com まで。 （○を@にかえてお使い下さい） 東京アートレッスン 3/8（木）、9（金）、11（日）昼・夜、去年の夏と同じ会場、大倉山記念館で行います。どうぞご参加ご検討下さい。（申し込みの表は、帰国後アップします）]]></description>
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		<title>第一回　エナジーアート展</title>
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		<pubDate>Fri, 29 Jul 2011 14:34:27 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[2011年7月の終わりの今、東京に来ています。 ８月の第一週の週末は、横浜市の「大倉山記念館ギャラリー」にて、「第一回　エナジーアート展」に参加します。 ６人の多彩なアーティストが集い、作品展示のみでなく、それぞれが皆さんとのセッションの機会を設けています。 以下、すこし長くなりますが、ご紹介します。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 第１回　エナジー・アート展 会期：２０１１年　８月５日（金）～８月７日（日） 開催時間：１０：００～１９：００ 場所：大倉山記念館ギャラリー ホームページ http://o-kurayama.com/ アクセス 東急東横線「大倉山駅」より徒歩7分 ( 駅とケンタッキーフライドチキンの間の坂道を渋谷方向に上る ) 地図等詳細：http://o-kurayama.com/access.html 住所 〒222-0037 横浜市港北区大倉山二丁目１０番１号 ・ 大倉山記念館　 TEL：０４５－５４４－１８８１ 出展アーティスト ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 大黒ゆ～こ Blog：　http://ameblo.jp/find&#8211;mind/ http://blog.goo.ne.jp/find-mind 文字デザイン 思い込みによる信念体系を、違う視点から見ることで変えていく。 空間を意識し、文字の持つカラーをイメージしています。さしずめ文字のオーラを描いているって感じでしょうか・・・文字と言葉により、気づきを促すよう制作しています。 ◇セッション 「気づきのオラクルカードによるセッション」 直感を引き出し、カード（文字・言葉）から気づきを得る。 引いたカードのフォローアップをします。 １５～２０分　２,０００円 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ Θ８水（ひろみ） ハートに響く美しいもの、想い、輝き、をアートで表現しています。 ◇セッション 「ピュアリティ∞アート」 私のハートに響く、あなたの本質の輝きの側面の一つをアートで表現します。 ３０分　２０００縁 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 貴翔 目に見えないエネルギーを図象(記号)化した作品 作品には２種の系統があり、一つは記号文字によるシステム・コード。一つは、マンダラ調に現されたシステム・シンボルがある。 例えるなら、観音様の経文(観音経)とお姿(観音像)とで一対を表すように、経文に当たるコードと、お姿に当たるシンボルで一対となる作品構成となっている。 ◇セッション 「グラフィック・ヒーリング」(イベントセッション) 基本　30分　 \5,000 延長　10分毎 \1,000 「グラフィック・ヒーリング　パワーストーン付」(イベントセッション) [...]]]></description>
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